高校野球好きの沖縄が生んだプロ野球選手たち

高校野球が始まると、なぜか街中が熱気に包まれる沖縄。甲子園で沖縄代表の試合が行われる時間は、観戦のために街から人の姿が消えるほど。そんな沖縄だからこそ、数多くのプロ野球選手が誕生しました。


プロ野球

読売ジャイアンツに入団した県出身選手

赤嶺賢勇

1958年生まれの、県立豊見城高校出身の投手です。1975年に出場した選抜大会では、夏に甲子園優勝を遂げた強豪・習志野高校を完封した時の気迫のこもったピッチングは、彼を一躍全国区に押し上げました。ちなみに、高校時代には「ナックルの賢」と呼ばれていました。

高校卒業の年である1976年に、ドラフト2位で読売ジャイアンツに入団。右の本格派として大いに期待されました。しかし、右肩の故障などによって思うような成績が残せず、1983年に現役を引退しています。

大野倫

1973年生まれで、県立沖縄水産高校出身の外野手です。高校時代は投手を任され、高校2年生の夏に出場した甲子園では、沖縄県勢初の準優勝を経験しました。この時の決勝戦では、大野さんの力投によって、強豪・天理高校に1点を許すのみ。「次こそは優勝できる!」と沸き上がった県民の期待は、2年の秋からエースで4番を任された大野さんの背中に大きくのしかかります。

高校卒業後は、九州共立大学に進学。高校時代の無理がたたり投手として続けることはできなかった大野さんですが、これを機に外野手に転向。在学中には、福岡六大学リーグでDHとして出場したり、最年少日本代表メンバーとしてアジア選手権にも出場しました。

大学卒業となる1995年に、ドラフト5位で読売ジャイアンツに入団。外野手として一軍スタメン出場なども果たした大野さんですが、2000年に吉永浩一郎さんとの交換トレードが決まり、福岡ソフトバンクホークスへ移籍。2001年4月に最終出場したのを最後に引退しました。

広島東洋カープに入団した県出身選手

安仁屋宗八

1944年生まれで、沖縄高校(現在の私立沖縄尚学高校)出身の投手です。少年時代から大の巨人ファンで、チームの中心ピッチャーだった藤田元司さんに憧れていました。高校3年生の時に、当時、南九州地区の強豪校であった宮崎大淀(現在の宮崎県立宮崎工業高校)を倒し、沖縄で初めて実力による夏の甲子園の切符をつかみました。

卒業後、一度は県内企業に勤めましたが、1964年に広島カープに入団。当時の沖縄はまだアメリカの統治下にあったことと県出身プロ野球選手第一号となったため、安仁屋さんのプロ入団は大変注目を集めました。プロ転向後初めて勝利した時は、市内の電気店の前はテレビ中継を見ようと大勢の人が集まり、翌日の地元新聞では、彼の初勝利を伝える記事でびっしりと埋め尽くされていました。そんな安仁屋さんは、「巨人キラー」として非常に人気が高く、1975年に阪神タイガースに移籍するも、1980年には再び広島に戻り、1981年に引退を迎えるまで長く活躍し続けました。

引退後は、お世話になった広島カープで一軍・二軍投手コーチや二軍監督などを歴任し、3度のリーグ優勝、と日本一に貢献しました。

金城宰之左

1986年生まれで、県立中部商業高校出身の投手です。高校卒業の2004年にドラフト7巡目で広島東洋カープに指名され、プロ入りを果たしました。高校時代は、2年生秋からエースを任されていました。

比嘉寿光

1981年生まれで、沖縄尚学高校出身の内野手です。3年に出場した甲子園では、春・夏通じて県勢初勝利に大きく貢献しました。高校卒業後は早稲田大学に入学。大学でも主将を務めるなど、存在感のある選手でした。2003年にドラフト3巡目で広島東洋カープに指名されプロ入りを果たします。2009年に引退しましたが、2010年からは一分チーム付きの広報に就任しています。

福岡ソフトバンクに入団した県出身選手

新垣渚(あらかき・なぎさ)

1980年生まれで、県立沖縄水産高校出身の投手です。幼稚園の頃はサッカーをしていた新垣さんですが、小学2年生からは、兄の影響で野球を始めます。当初は長身の体格を見込まれ捕手を任されていましたが、足の怪我によって投手へ転向。中学時代は、計4回足を骨折したことにより、ほとんどまともに走ることが出来なかったそうです。ところが中学卒業後は、強豪校であった県立沖縄水産高校へ入学し、裁監督の指導を受け、チームの主力投手として活躍します。

甲子園では、当時横浜高校のピッチャーだった松坂大輔さんがおり、1998年に出場した甲子園では、松坂さんとともに多くの注目を集めました。高校卒業の年のドラフト会議でオリックス・ブルーウェーブと福岡ダイエーホークスが1位指名。競合の結果オリックスが交渉権を得ますが、もともと「ホークス以外は進学」と決めていた新垣さんは、入団を拒否し、そのまま九州共立大学へ進学しました。

その後、2002年のドラフト会議で念願だった福岡ダイエーホークスから自由獲得指名を受け、プロ入りした新垣さんは、先発ローテーションに定着。月間MVPを受賞するなど華々しい活躍を見せましたが、2014年に東京ヤクルトスワローズへ移籍。2016年に、現役を引退しました。現在は、福岡ソフトバンクスの球団職員として古巣に復帰し、野球教室の指導や運営などに携わっています。

近鉄バッファローズに入団した県出身選手

有銘兼久

1978年生まれで那覇市出身の有銘兼久さんは、沖縄県立浦添商業高校出身の投手です。社会人野球からプロ入りした選手で、高校卒業後は、大仙、九州三菱自動車を経て、2001年ドラフト会議で大阪近鉄バファローズに入団しています。普段は社会人として働いていた当時の有銘さんは、近鉄からドラフト指名されていることを知らされた時、仕事で得意先を回っている最中だったといいます。

そんな有銘さんですが、近鉄時代は思ったような成績が残せず、2005年に東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍。しばらくは二軍落ちするなど苦しい時代が続きますが、一軍復帰後に9回無失点の好投を見せ、首脳陣の信頼を回復すると、その後は先発ローテーションに定着。安定したピッチングが魅力のピッチャーとして活躍しましたが、2012年に現役を引退しています。

真喜志康永

1960年生まれで沖縄市出身の真喜志康永さんは、沖縄高校(現在の沖縄尚学高校)出身の内野手です。高校卒業後は社会人野球の東芝に所属。高い守備力が評価され、一躍注目選手となります。1986年に行われたドラフト会議で近鉄バッファローズに3位指名され入団すると、プロ入り1年目の開幕戦では先発出場を果たし、村田長治投手からホームランを放つ華々しいデューを飾ります。

真喜志さんは1994年に現役を引退しましたが、その後もチームに残り、一軍の守備走塁コーチに就任。2004年にオリックスと合併しオリックス・バッファローズとなってからは、新監督直々にコーチ就任を要請され、オリックスでも一軍守備走塁コーチをつとめました。

阪急ブレーブスに入団した県出身選手

石嶺和彦

1964年生まれで那覇市出身の石嶺和彦さんは、県立豊見城高校出身の外野手・捕手です。小学校5年生の時に地元の那覇カープに入り本格的に野球を始めた石嶺さんは、当時から捕手として起用されていたのですが、本人としては投手に憧れがあったといいます。ところが、6年生の時に捕手で出場した沖縄県大会で、チームは準優勝。この時の活躍で、石嶺さんは捕手の注目選手となります。

中学卒業後は、沖縄高校野球の名監督・裁弘義監督がいる豊見城高校へ進学。ここで猛練習を詰んだ石嶺さんは、2年生ながら四番打者を務めるまでに成長します。3年生の夏の甲子園では、自身初となる甲子園でのホームランを放つなど、全国的に注目される選手となっていました。この年のドラフト会議で阪急ブレーブスから2位指名され入団しましたが、この時の契約金及び年俸は、同じ年の高校卒選手の中で最高金額でした。

阪急入団後は捕手として安定した活躍を見せていた石嶺さん。出場回数が増加するものの、それに伴い学生時代に痛めた左ヒザへの負担が増していき、最終的には歩くことも困難なほどに悪化してしまいます。この怪我に対するリハビリのあと、捕手から外野手に転向。1996年に現役を引退するまでの間に、打点王1回、ベストナイン賞3回、月間MVP2回など、数々の賞や記録を打ち立てました。

引退後は、野球解説者や打撃コーチとしてさらに活躍していた石嶺さん。特に1997年からは、毎日放送・スポーツニッポンで野球解説者として7年間務めています。

東北楽天ゴールデンイーグルスに入団した県出身選手

伊志嶺忠

1985年生まれで宜野湾市出身(幼少期に北谷町に転居したことから、公式には北谷町出身と表記されています)の伊志嶺忠さんは、県立北谷高校出身の捕手、一塁手、外野手です。

小学生の頃から地元の少年野球チームに所属し、内野手をつとめていた石嶺さんですが、中学一年の途中から捕手に転向。北谷高校に進学した直後は外野手をつとめることもありましたが、主に、捕手を任されていました。高校卒業後は東京情報大学に進学し、1年生からレギュラー兼4番の正捕手を任されます。在学中に、千葉県大学野球リーグで3度の優勝を経験し、さらに、同リーグのベストナインには4度選出されています。

プロ入りしたのは、2008年のこと。前年に行われた大学生・社会人ドラフトで、東北楽天ゴールデンイーグルスから3巡指名を受けての入団となりました。チームメイトたちからは「ターシー」と呼ばれている伊志嶺さんですが、星野監督からは「シーサー」と呼ばれることもあるそうです。

ちなみに、北谷高校時代の同級生には、ORANGE RANGEのRTOや歌手の伊礼麻乃さんがいます。

西村弥

1983年生まれで南城市出身の西村弥さんは、沖縄尚学高校出身の内野手です。高校時代は残念ながら甲子園出場の経験はできませんでしたが、東京情報大学に進学後は、1年生の頃からレギュラー入り。3年生の秋に出場した千葉県大学野球リーグでは、チーム初のリーグ優勝に貢献。主将となった4年生では、チームをけん引する存在として、秋のリーグ制覇に大きく貢献します。

プロ入りしたのは、2006年のこと。前年に行われた大学生・社会人ドラフトで東北楽天ゴールデンイーグルスから5巡目指名を受けて入団しました。入団後は、「若手ナンバーワンの守備力」と評価され一軍に定着していましたが、2015年に現役を引退しています。

北海道日本ハムファイターズに入団した県出身選手

糸数敬作

1984年生まれで沖縄市出身の糸数啓作さんは、県立中部商業高校出身の投手です。高校卒業後に進学した亜細亜大学在学中には、東都大学1部リーグ公式戦で、26試合登板のうち通算成績は8勝6敗、防御率2.33。奪った三振の数は、トータルで94を記録しました。この輝かしい成績を受けて、2006年に行われた大学・社会人ドラフトで北海道日本ハムファイターズから3巡目に指名され、入団しています。

即戦力が期待されたものの、入団後2年間は1軍での出場はなく、2009年になってから投球フォームをオーバースローからサイドスローに変更。すると、この年の5月から1軍に初めて昇格し、6月にはプロ初勝利を挙げています。2013年に現役を引退していますが、その後、地元沖縄に戻り、2014年には、読谷村で自身が経営するダイビングショップをオープンさせています。

金城博和

1962年生まれで今帰仁村出身の金城博和さんは、興南高校出身の内野手です。興南高校の3年生の時に、夏の甲子園出場。4番打者として準々決勝までコマをすすめましたが、早稲田実業高校の荒木大輔投手に完封され、金城さんの甲子園の夏はそこで終わりを告げました。ただし、この試合でスカウト人から「右の強打者」として強烈なインパクトを与えた金城さんは、その年のドラフト会議で、日本ハムファイターズから2位指名を受け入団しています。

1985年には、イースタンリーグのベストナインに選出されるなど活躍したものの、1986年には現役を引退しています。

福岡ダイエーホークスに入団した県出身選手

稲嶺誉

1980年生まれで糸満市出身の稲嶺誉さんは、県立沖縄水産高校出身の選手です。高校時代のチームメイトには新垣渚さんがおり、3年生の時に一緒に春・夏連続で甲子園に出場しています。

高校卒業後は、北海道にキャンパスを持つ東京農業大学生物産業学部に進学。野球部に所属した稲嶺さんは、1年生からレギュラー入りし、在学中に、全日本大学選手会に4回出場しています。北海道六大学リーグでは、首位打者3回、ベストナイン6回と、華々しい成績を残したこともあり、スカウト人から注目されます。2002年には、大学・社会人ドラフトで、福岡ダイエーホークスから8巡目に指名を受け入団しました。

入団一年目の2003年には、ルーキーながらも日本シリーズに出場。2007年に現役を引退した後は、コーチやマネージャーなどをつとめていましたが、2016年からはスカウトをつとめています。

佐久本昌広

1974年生まれで読谷村出身の佐久本昌広さんは、左投げの投手です。中学時代に沖縄選抜として参加した九州大会で優勝したことをきっかけに、福岡県にある久留米工業大学付属高校に野球留学します。高校卒業後や大和銀行の野球部に所属し、都市対抗野球大会にも出場しています。

プロ入りは、1995年。大学・社会人ドラフトで、福岡ダイエーホークスから4位指名を受けたことで入団しました。即戦力として期待されていた佐久本さんは、入団一年目から、中継ぎを中心に1軍で活躍します。1998年には先発ローテーションにも加わり、移籍した工藤公康さんの代わりとして「ポスト工藤の一番手」として期待されました。残念ながら、その翌年に結果が出せず、チームは優勝したものの、屈辱の一年となってしまいました。

2003年には、トレード選手として阪神タイガースへ移籍。フォームを改造するなど様々な努力を続けてきたものの、思うような実績が出せず、2011年に現役を引退しました。引退後は、地元である沖縄に戻り、会社員として働きながら、地元で行われる試合のラジオ中継で野球解説者を務めていましたが、2014年に、古巣である福岡ソフトバンクホークスの三軍投手コーチに就任。2017年からは、二軍投手コーチを務めています。

ロッテに入団した県出身選手

伊良部秀輝

1969年生まれで沖縄市出身の伊良部秀樹さんは、兵庫県尼崎育ちの投手です。中学校を卒業すると、野球の強豪校として有名な香川県の尽誠学園高校に進学。1987年のドラフト会議でロッテオリオンズから1位指名されてプロ入りしました。

プロ入り1年目から1軍のマウンドを経験した伊良部さんは、スピードボールが持ち味の投手でしたが、コントロールが悪いことが影響し、入団後数年間は苦しい時代が続きます。ただ、西部の清原和博さんとの対決は非常に見応えがあり、1993年5月の西武戦で清原さんを相手に150㎞/hの剛速球をマークした一戦は、「平成の名勝負」といわれ、多くの野球ファンの記憶に残る名シーンとなりました。この頃になると、投球のコツをつかみ、コントロールも安定。ローテーション投手となり、シーズン最多勝、最多奪三振、最優秀防御率など様々なタイトルを獲得します。

1997年には、自身が熱望していたニューヨーク・ヤンキースに移籍。ヤンキース史上初の日本人メジャー選手として活躍します。その後、モントリオール・エクスポズやテキサス・レンジャーズで活躍した後、2002年に帰国し、星野仙一監督が率いる阪神タイガースへ入団。2005年に一度現役を引退しましたが、その間も、現役復帰を目指しトレーニングを続け、2009年に北米独立リーグのロングビーチ・アーマダに入団。5年ぶりの現役復帰でしたが、初登板初先発で勝利投手を勝ち取りました。

ただし、この後も、1回目の現役引退の原因の一つとなった怪我などの影響もあり、2010年に自身のブログ内で2度目の現役引退を発表しています。

中日ドラゴンズに入団した県出身選手

伊礼忠彦

1970年生まれで石垣島出身の伊礼忠彦さんは、県立沖縄水産高校出身の外野手です。高校時代に夏の甲子園出場を2度経験した伊礼さんは、第70回大会でホームランを2本打つ活躍を見せました。卒業後は、九州共立大学に進学。在学中には、日米大学野球選手権大会の日本代表選手として出場を果たしました。

プロ入りは、1992年。この年のドラフト会議で、中日ドラゴンズから5位指名を受け、入団します。俊足が持ち味の外野手として、プロ2年目には一軍での出場も果たした伊礼さんは、1994年の対巨人戦でプロ入り後初安打を記録。その後の活躍が期待されましたが、翌年の春キャンプ中に階段から転倒したことによる怪我がもとで体を故障し、間もなく現役を引退しました。

上原晃

1969年生まれで宜野湾市出身の上原晃さんは、県立沖縄水産高校出身の投手です。高校在学中には、甲子園に4回出場。完成度の高いスピードボールが武器の上原さんは、当時から「オキナワの星」として高い注目を集め、1987年のドラフト会議で中日ドラゴンズから3位指名を受けプロ入りを果たします。

もともと高校卒業後に明治大学への進学を希望していた上原さんを星野監督直々の説得によって契約にこぎつけた中日は、背番号17を与えられ、チームから大いに期待される存在。その期待に応えるように、プロ入り1年目でウエスタン・リーグ最優秀防御率と最多勝率を記録した上原さんは、ジュニアオールスターゲームにも出場し、ここでも活躍を見せます。この実績を評価され一軍に抜擢されると、その年の8月にプロ初勝利を挙げ、日本シリーズにも登板しました。

その後、広島東洋カープやヤクルトスワローズにも移籍しましたが、1998年に現役を引退しています。

デニー友利

1967年生まれで浦添市出身のデニー友利さんは、興南高校出身の投手です。興南高校時代には、「選手が選ぶ!ベストアンパイア」にも選出されているプロ野球審判員・名幸一明さんとバッテリーを組んでいました。

1986年に行われたドラフト会議で、横浜大洋ホエールズから1位指名されたことを受けプロ入りしたデニー友利さんは、入団一年目の後半には先発登板を果たしましたが、制球力の悪さなどを指摘され、しばらくは我慢の時期が続きます。

フォームの改善によって安定感が増したデニー友利さんは、1995年に、プロ入り9年目にして初勝利を挙げます。1997年に西武ライオンズに移籍しましたが、2003年には横浜に戻り、中継ぎや抑えの選手としてチーム内で重用されました。2005年には、自らトライアウトを行いボストン・レッドソックスにマイナー契約を結びましたが、メジャーに昇格することはできず帰国。中日ドラゴンズに入団し、最速150km/hのストレートを武器に中継ぎ投手とした活躍しました。2007年10月、本拠地採取戦でサヨナラ登板を迎えたのち、中日を退団。11月には現役引退を発表しました。

現役引退後は、野球解説者やコーチとして活動を始めたデニー友利さん。特に、日本放送の「ショウアップナイター」では、野球解説者をつとめていました。

西部ライオンズに入団した県出身選手

平良幸一

1970年生まれで平良市(現在の宮古島市)出身の平良幸一さんは、県立沖縄水産高校出身の投手です。沖縄水産高校時代に出場した第70回全国高等学校野球選手権大会では、エースとしてチームを牽引し、見事ベスト4進出を決めました。

高校卒業後は地元企業である沖縄電力に入社した平良さん。その後、1997年のドラフト会議で西武ライオンズから7位指名を受け、プロに入団。実働3年の間、1軍での試合出場は2回。2000年に現役を引退すると、地元沖縄に戻り、出身チームである沖縄電力の監督を務めたりもしました。

仲田秀司

1966年生まれで国頭郡金武町出身の仲田秀司さんは、興南高校出身の捕手です。興南高校時代には、仲田幸司とバッテリーを組み、甲子園を3度経験しました。高校卒業後は、ドラフト5位指名で西武ライオンズに入団。2番捕手として重用され、活躍を見せていましたが、1995年に現役を引退しました。

ヤクルトスワローズに入団した県出身選手

上原厚治郎

1983年生まれで那覇市出身の上原厚治郎さんは、興南高校出身の投手、捕手、外野手です。高校時代から140km/hを超える速球と高校通算10本のホームランを記録した打力、さらに野手としても高く評価されていたこともあり、早くからドラフト候補として注目された選手でした。ところが実際のドラフト会議ではどのチームからも指名を受けることはなく、地元の沖縄電力に入社。チームでは、都市対抗野球出場の原動力となる活躍を見せました。

プロ入りを果たしたのは、2004年のドラフト会議でのこと。ヤクルトスワローズから5巡目で指名を受けた上原さんは、準即戦力として期待される選手でした。入団一年目から一軍でのキャンプスタートを切った上原さんは、オープン戦で初登板・初勝利を挙げたことで、そのまま開幕一軍の座をつかみ取ります。

華々しいデビュー戦での活躍とは裏腹に、その後は目立った活躍が見せられず、苦しい時期が続きます。二軍登録がつづきましたが、2008年にはイースタン・リーグで10試合連続無失点の好投を見せたことで、一軍に登録。ところが、制球を乱して撃ち込まれるケースが増えるようになり、投手から野手に転向。その後も、野手や捕手として出場するものの、投手としての現役続行を上原さんが希望し、トライアウトを受験するため中日では戦力外となりました。これによって埼玉西武ライオンズの入団テストを受けることになった上原さんは、無事に合格し入団を決めます。

入団後は、二軍で27試合に登板し好成績を残しますが、一軍登録を果たすことが出来ず、2010年に現役を引退。

横浜ベイスターズに入団した県出身選手

大田阿斗里

1989年生まれで西原町出身の大田阿斗里さんは、3歳まで沖縄で過ごした後、東京に住まいを移しています。そのため、出身高校は帝京高校です。小学3年生の頃から地元の野球チームに所属していた大田さんは、入部当初は外野手をつとめていましたが、5年生の時に投手へ転向。小学6年生の時には、江戸川区選抜として世界大会出場を果たします。

帝京高校進学後は、1年生の頃からベンチ入りを果たし、甲子園には、2年生の夏から3季連続で出場しました。2007年に行われたドラフト会議で横浜ベイスターズから3巡目指名を受けプロ入りした大田さんでしたが、入団後しばらくは、2軍で過ごすことが多く、我慢の時期が続きます。2008年に一軍初先発を果たしますが、一軍定着はならず、一時は自身が戦力外通告を覚悟するほど低迷します。

そんな太田さんがシーズン初の出場選手登録を果たしたのは、2014年4月中旬のこと。公式戦で3試合登板し無失点にとどめる力投を見せたものの、4月30日には登録を抹消され、その後も一軍公式戦への当番のチャンスはなく、2015年にチームから戦力外通告を受けます。これを受けて12球団合同トライアウトに参加し、オリックスから育成選手として契約を受け入団。2016年9月には、移籍後初の一軍マウンドを踏みましたが、結局一軍での公式戦の登板はこの1試合のみとなり、同年12月に自由契約公示されました。

宮里太

1965年生まれで美里村(現在の沖縄市)出身の宮里太さんは、宮崎県の都城高校出身の外野手・捕手です。都城高校在学中には、捕手として夏の甲子園に出場しました。高校卒業後は専修大学に進学し、野球部に所属。当時低迷していたチームの再建に尽力し、一時は東都大学リーグで二部に降格していたチームの一部復帰に大きく貢献しました。

1986年に行われた日米大学野球選手権大会で日本代表にも選ばれた宮里さんは、同年に行われた秋季リーグでベストナインにも選出されました。大学卒業後は熊谷組に入社し野球部に所属すると、外野手として起用されます。1987年からは2年連続で都市対抗野球大会に出場。さらに同年に行われた第14回アジア野球選手権大会では、日本代表にも選ばれました。

そんな宮里さんは、1988年に横浜大洋ホエールズからドラフト2位指名を受け入団。この時ドラフトで1位指名を受けた谷繁元信さんが捕手だったこともあり、捕手から外野手に転向した宮里さんは、入団一年目から一軍に定着し、48試合に先発出場するなど好成績を収めました。1997年に現役を引退した宮里さんですが、現役時代には球団の選手会長に就任するなど、チーム全体のまとめ役としても活躍した選手でした。

与座朝勝

1960年生まれで那覇市出身の与座朝勝さんは、興南高校出身の投手・内野手です。興南高校といえば、多くのプロ野球選手を輩出した県内では有名な野球の強豪校ですが、興南高校初のプロ野球選手は与座さんでした。

興南高校から初のプロ入りとなった与座さんは、プロを目指す後輩たちの憧れの存在となりましたが、プロ入り後は、一軍になかなか上がることが出来ませんでした。1982年には野手に転向し一軍を目指すものの、最終的には現役時代に一軍公式戦に出場することなく、1985年に現役を引退しています。

スティーブン・ランドルフ

アメリカ国籍を持つスティーブン・ランドルフさんですが、実は嘉手納町の出身の投手です。アメリカ空軍として嘉手納基地に所属していた父親の都合で、嘉手納基地のある嘉手納町で生まれたスティーブンさんですが、1歳の時に一家でアメリカ本国に帰国しています。テキサス大学オースティン校からニューヨーク・ヤンキースにドラフト18巡目で指名されて契約したスティーブンさんは、1998年にアリゾナ・ダイヤモンドバックスに移籍した後、マイナーリーグチームやヒューストン・アストロズに移籍した後、2009年に横浜ベイスターズと契約し、来日しました。

横浜ベイスターズ時代には、外国人投手として史上初の初登板初打席初本塁打を記録。その後も、先発ローテーション投手として好投を続け、外国人選手として日本プロ野球史上最多タイ記録の1試合15奪三振を記録するなど様々な記録を残し、2010年11月に横浜を退団しています。

阪神タイガースに入団した県出身選手

親富祖弘也

1972年生まれで浦添市出身の親富祖弘也さんは、県立宜野湾高校出身の捕手です。高校時代は無名の選手でしたが、宜野湾高校卒業の年に行われた1990年のドラフト会議で、西武ライオンズから4位指名を受け入団。

100mを11秒で駆け抜ける俊足を見込まれ、1軍レベルの守備と評された親富祖さんですが、打撃面に課題があったため、入団後、一軍公式戦に一度も出場することなく、1996年に24歳の若さで現役を引退しています。

大城祐二

1985年生まれで豊見城市出身の大城祐二さんは、県立沖縄水産高校出身の二塁手、遊撃手、外野手です。沖縄水産高校卒業後は、TDN千曲川に入社し、都市対抗野球や社会人野球日本選手権大会に出場。特に、社会人野球日本選手権大会予選では、1試合で5盗塁を決めるなどの活躍を見せます。こうした大城さんの評価に注目した阪神タイガースから、2006年に大学・社会人ドラフト会議で指名を受け、入団を決めます。

プロ1年目は故障が相次ぎ、手術やリハビリに専念し、2軍のウエスタン・リーグに出場。2年目の2008年は、ウエスタン・リーグで50試合に出場したものの、前年以上の成績は残せず、2010年まで一度も一軍出場がかなわないまま、福岡ソフトバンクホークスの育成選手として契約し移籍しました。ところが、2011年にはソフトバンクでも戦力外通告を受け、独立リーグの福井ミラクルエレファンツへ移籍しましたが、2012年10月に現役引退をしています。