琉球エイサーの始祖・袋中上人

沖縄の伝統舞踊というと、エイサーがあります。このエイサーの始祖といわれているのが、袋中上人。琉球への浄土宗普及に貢献した袋中上人とエイサー。そこには、一体どんな関係があるのでしょうか?

エイサー

そもそも袋中上人は、どんな人だったの?

琉球王国で浄土宗の布教につとめたといわれている袋中上人。でも、彼は琉球王国の出身者ではありません。そもそも、現在の福島県いわき市出身であった袋中上人が、遠く離れた琉球となぜ接点を持つことになったのでしょうか?

その疑問を解決するために、まずは袋中上人の生い立ちについて少し触れておきましょう。

生まれるときから仏様とご縁があった?

袋中上人が生まれたのは、現在の福島県いわき市。両親ともに法名を持つという仏教一家の第三子として生まれた袋中上人は、生まれる前から仏様との不思議なご縁があったといわれています。

虚空蔵菩薩にお参りしたら妊娠した

虚空蔵菩薩といえば、智慧を授ける仏様として有名です。その虚空蔵菩薩が祀られている能満寺を、ある日、袋中上人の母がお参りに来たそうです。すると、その後、袋中上人を妊娠したことが分かったといわれています。

虚空蔵菩薩像を握ったまま生まれてきた袋中上人

虚空蔵菩薩に祈願したことで袋中上人を妊娠したというだけでも不思議な出来事ですが、袋中上人の誕生についても、不思議な伝説があります。

無事にこの世に生まれることが出来た袋中上人。でも。生まれたばかりの袋中上人の右手は、なぜか固く握られたままでした。なんとかして右手を開かせようとするのですが、誰もその手を開かせることが出来ません。

ところが、生まれてから37日が過ぎると、右手が自然と開きます。驚いて右手の掌を覗いてみると、そこには、虚空蔵菩薩の像があったといいます。

目から光線が出たことがきっかけで仏門に入門

袋中上人が仏門に入ったきっかけも、不思議な出来事が関係していたようです。

その不思議な出来事が起きたのは、袋中上人が7歳になったある春の夜のこと。家族とともに家でいつものように過ごしていた袋中上人ですが、突然、その目から光線が出てきます。

この出来事を目の前で見てしまった両親は、さすがに驚きます。そして、生まれてからここまでの彼の様子を思い返し、「これは、早めに仏門に入れなければいけない」と思うようになります。こうして袋中上人は、7歳にして仏門に入るために、叔父がいる能満寺へと預けられました。

やたらに頭が良かった袋中上人

「歴史上の偉人の幼少期といえば秀才」というのが王道。もちろん、袋中上人の場合も、例外ではありませんでした。ただ、虚空蔵菩薩と縁の深い袋中上人だからでしょうか?その英才ぶりが、あまりにもとんでもないのです。

5歳にして天才

袋中上人は、5歳のころにすでに1000文字を暗記しいたといいます。現在の幼児教育の現場でも、5歳の時の才能は、その後の人生に大きく影響を与えるといわれています。とはいえ、この年齢の子どもが1000文字を暗記することが出来たというのは、まさに驚きです。

6歳にして秀才

6歳になると、儒教の基本経典といわれている五経を読むことが出来たといいます。これはさすがにすごいことです。

五経にかかれていることは、伝統的な儒教の考え方であり、大人であっても相当な知識がなければ読むことが出来ない書物です。これを、現在で言えば小学校入学前には読むことが出来たということですから、そのすごさは本物です。

7歳で英才

能満寺に入門した7歳になると、さらにその才能は開花していきます。なんと、入門して間もなくすると、浄土宗の基本経典といわれている「浄土三部経」のほか、関係する様々な経論を読み込み、しまいにはそのほとんどを暗記してしまいます。

出家してからも猛勉強を続けた袋中上人

14歳の年に出家した袋中上人ですが、それまでも様々なところで非凡な才能を発揮し続けたため、周囲からの期待もうなぎ上り!より深く学問に関わらせるため、様々な寺へ修行行脚に出されます。こうして新しい仏法に触れる機会を得た袋中上人は、修行先で精力的に仏の教えを学び続けます。

その甲斐あって、25歳の時には浄土宗白旗派の奥義を極めることに成功。さらに袋中上人は、その後、関東における事実上の最高学府であった足利学校において、禅を学ぶこととなります。

年老いた両親のことが気になり故郷へ戻る

29歳を迎えた袋中上人は、故郷にある成徳寺の住職就任の要請を受けます。この頃になると、袋中上人の両親はすでに高齢となっていました。

修行の為だったとはいえ、遠く離れた両親の様子が気になっていた袋中上人は、その要請を受けることにします。こうして袋中上人は、再び故郷へと帰っていきます。

50歳を過ぎてもまだ勉強したがっていた袋中上人

7歳の時点で、すでに英才と呼ばれていた袋中上人。両親のことがきっかけで故郷の福島県に戻ったものの、その後も学問に対する意欲は劣れることはありませんでした。

その情熱は、当時の平均寿命といわれていた40歳を過ぎても、なお衰えることがなかったようです。そのため、当時の最先端の学問を学ぶことが出来る明に渡り、日本ではまだ知られていない仏法に触れてみたいと強く思うようになります。

長年の夢をかなえるためについに決断を下したのが、袋中上人51歳の時でした。

明に渡るために琉球王国へやってきた袋中上人

長年の願いをかなえるために民へと渡ることを決意した袋中上人でしたが、この当時の日本人が明に渡るということは、とても難しいことでした。その理由は、豊臣秀吉による朝鮮出兵にありました。この影響で、日本と明の関係は断絶状態。そのため、日本人が明へ直接渡ることは、現実的には不可能でした。

そこで袋中上人が考えたのが、独自で明との貿易や交流が行われていた琉球王国から渡るルートを使うことにします。当時の琉球王国、東アジアの貿易拠点都市であり、明とも、独自の交易ルートを持っていました。ですから、日本で明への渡航のチャンスを待つよりは、より確率の高い琉球王国で待つことの方が、はるかにチャンスが多かったというわけです。

でも、ここでようやく、袋中上人と琉球とのつながりが見えてきました。

袋中上人とエイサー

いよいよ琉球王国に訪れることになった袋中上人。ここでようやく、浄土宗布教の目的で作られることになるエイサーが登場します。ただ、エイサーの誕生には、それなりに苦労があったようです。

幅広い交友関係によって開かれた浄土宗布教の道

琉球王国で滞在することになった袋中上人は、王府の高官や国王等、琉球王国の上流階級と幅広い交流を続けます。これによって、袋中上人は、浄土宗布教のために必要な後ろ盾を手に入れることになります。

ただし、その背景には、すでに琉球王国に伝わっていた臨済宗と真言宗の存在がありました。

袋中上人が後ろ盾を手に入れることが出来た背景

袋中上人が琉球王国を訪れる以前に、すでに仏教は琉球に伝わっていました。とはいえ、当時の琉球王国に伝わっていたのは、仏教の中でも臨済宗や真言宗の2つのみ。

しかも琉球王国で布教されていた当時の臨済宗や真言宗は、寺への寄進や修行がなければ救われないという考えがありました。そのため、一般庶民の間には全く広まらず、一部の特権階級のみが信者となっていたといいます。

これに対して袋中上人の浄土宗は、念仏を唱えるだけで救われるという、非常なシンプルな教えでした。この教えに感銘を受けた時の国王・尚寧王をはじめとする上流階級の人々は、すぐに袋中上人が教える浄土宗に帰依していきます。

こうしたこともあって、その後、袋中上人は、桂林寺の住職に就任し、そこを拠点としながら一般庶民への布教活動に努めることになります。

庶民への普及に意外と苦戦をする袋中上人

時の国王など、琉球王国内において絶大なる後ろ盾を手にした袋中上人でしたが、一般庶民に対する布教活動にはかなり苦戦したようです。

日本とは異なる独自の宗教や文化・言葉を持っていた琉球民族ですから、いくら念仏を唱えるだけで救われるといわれても、そう簡単に庶民が理解することはできません。

そこで袋中上人は、当時、庶民の間でも広く親しまれていた琉歌で念仏を作ることを思いつきます。そして、この袋中上人が作った念仏歌を専門に歌う念仏者を使うことによって、一般庶民の間にも普及させていくことにしました。

この念仏歌は、当時の一般庶民の間で行われていた先祖供養の儀式とうまく融合し、エイサーとして独自の発展を遂げます。

3年で帰ってしまった袋中上人

仏教を一般庶民の間に広めるという偉業を成し遂げた袋中上人ですが、彼が琉球王国で行った布教活動は、わずか3年という短い期間でした。「3年」というのは、布教期間としては非常に短いのですが、本来の目的であった明への渡航を断念するまでの期間としては、長すぎたのかもしれません。

帰国した袋中上人は、88歳で生涯を閉じるまでの間、多くの弟子とともに仏門に励んだとされていますが、袋中上人が琉球王国に伝えた浄土宗は、その後、薩摩藩による琉球征伐をきっかけに急速に勢力を弱めていきました。

ただ、袋中上人によって生み出された念仏歌は、今でも、盆の時期になると先祖供養の行事として、本島各地のエイサーの中で使われています。