裁監督が育てた県出身のプロ野球選手

甲子園に監督として通算17回出場した伝説の指導者・裁弘義。数多くの教え子たちの中には、プロ野球選手となった教え子もたくさんいます。今回は、その中でも主なプロ野球選手をピックアップしてみました。

そもそも裁監督ってどんな人?

甲子園

裁監督は、1941年に糸満市に生まれました。4歳の時に体験した沖縄戦によって、背中に重傷を負ってしまった裁監督ですが、小学生の時に始めた野球が、その後の人生を大きく変えました。

甲子園請負人の不遇な高校時代

通算17回も沖縄代表の監督を務めた裁監督。もちろん、自身の高校時代も、甲子園を目指す高校球児でした。ところが、甲子園請負人とまで呼ばれた裁監督であっても、高校時代に選手として甲子園の土を踏むことはできませんでした。

そもそも裁監督が高校生だったころの甲子園では、現在のような一県一代表制が採用されていませんでした。そのため、沖縄の高校が甲子園に出場するためには、九州の学校との決定戦での勝利が条件にありました。

ところが、当時の沖縄はまだ本土復帰前のこと。そのため、沖縄の高校生が他県の高校生との試合を経験したり、有名な指導者の下で野球を学ぶ機会はほとんどなく、練習面においても厳しい環境にありました。こうしたこともあり、この制度下での沖縄県勢の甲子園出場は至難の業でした。

そんな状況が続いていたのですが、裁監督が高校2年生の時に転機が訪れます。この年に行われた第40回の記念大会において、特例として一県一代表制が採用。これによって、沖縄県大会で優勝すれば、甲子園出場が出来るチャンスが巡ってきます。この特例に、これまで九州大会で涙をのんできた沖縄の高校球児たちは、例年にない白熱した試合を繰り広げ、沖縄県代表の座を争います。

裁監督が在籍していた糸満高校も、優勝候補の一角でした。順調にコマを進め、ついに準決勝まで進出。ところが、対戦相手の首里高校と乱打戦となり、6-8で糸満高校は準決勝を敗退してしまいます。こうして、高校球児としての裁監督の甲子園は、幕を下ろしました。

高校野球監督としてスタートは小禄高校だった

高校卒業後、中京大学に進学し、野球指導者としての道を目指していた裁監督は、大学卒業の1964年に帰郷し、地元の小禄高校に赴任し高校野球監督としてのスタートを切ります。

かつて自分が成し遂げられなかった甲子園の夢をかなえるために、全国に通用するチームを目指して指導にあたった裁監督。夢を現実のものにするために選手たちに課したのが、過酷な練習でした。度々選手から反発や対立が起こったものの、裁監督の指導によって小禄高校は着実に実力をつけ、1970年には、初めて夏の甲子園沖縄大会で優勝を果たしました。

残念ながら、九州地区代表決定戦で宮崎県代表の都城高校に敗れたため、小禄高校の甲子園出場はかないませんでしたが、それでも、小禄高校のそれまでの活躍を通して、高校野球監督としてのキャリアは確実に身に付けました。

豊見城高校で沖縄旋風を起こす

小禄高校での実績を抱えて、翌年に赴任したのが豊見城高校。裁監督が、監督として初めての甲子園出場を果たしたのが、1975年の春の大会でした。この年のメンバーには、のちにプロ野球選手となった赤嶺賢雄選手も含まれており、甲子園でも活躍を見せます。

甲子園での初戦の相手は、夏の大会の優勝校であり、春大会でも優勝候補の一角であった習志野高校。ここで見事に勝利をおさめた豊見城高校は、その後も準々決勝まで勝ち進みます。その雄姿を見た多くの甲子園ファンの間から沖縄旋風が沸き起こり、豊見城高校は一気に注目されるようになります。

ところが、準々決勝の相手は、原辰徳選手を要する東海大相模高校。9回まで1点リードのままで試合を進めてきた豊見城高校でしたが、その裏の東海大相模の攻撃で、2死ランナーなしの場面から逆転サヨナラ負けを喫してしまいます。初めての豊見城高校での甲子園大会の結果は、ベスト8。その後、豊見城高校は、全部で6回甲子園に出場しましたが、いずれもベスト8の壁を越えられず、裁監督の豊見城高校時代は終わりを告げます。

ベスト8の壁を破った沖縄水産高校時代

1980年に広大な敷地を自由に使用できる沖縄水産高校へ転任した裁監督は、1984年の夏の大会で初の甲子園出場を決めます。その後、1988年までの5年間連続で夏の甲子園に出場を決め、沖縄水産高校野球部の黄金時代を築きました。

さらに、豊見城高校時代から大きな輪壁として立ちはだかっていたベスト8の壁も、1998年夏の大会で初めて破り、見事ベスト4に進出。悲願の全国制覇は叶わなかったものの、1990年と1991年夏で2年連続準決勝を果たしました。

裁監督の指導を受けた主なプロ野球選手たち

豊見城高校時代に6回、沖縄水産高校時代に11回の甲子園出場を果たし、甲子園での通算成績27勝17敗を記録した裁監督。過酷な練習と厳しい指導によって多くの高校球児を育ててきた裁監督の元からは、プロ野球界で活躍する選手がたくさん誕生しました。その中から、主なプロ野球選手を紹介してみましょう。

豊見城高校時代の主な教え子

裁監督が、野球指導者として初めて甲子園出場を果たしたのが、豊見城高校でした。

赤嶺賢雄

豊見城高校初の甲子園酢津城を果たした時に、エースを任されていました。高校時代は、「ナックルの賢」と呼ばれ、1975年に出場した春の甲子園大会では、強豪・習志野高校打線を抑え、ベスト8入りを果たしました。

1976年のドラフトで、読売ジャイアンツから2位指名を受けてプロ入りした赤嶺選手は、右の本格派としてプロでの活躍が期待されていましたが、右肩の故障などが原因で成績が残せず、1983年に現役を引退しました。

沖縄水産高校時代の主な教え子

裁監督の高校野球監督時代の中で、最も長い期間監督を務めていたのが、沖縄水産高校です。沖縄水産の黄金時代には、プロ入りしなかった選手も含め、多くの名選手が誕生しました。

上原晃

沖縄水産高校の黄金期に活躍したのが、上原選手です。完成度の高いスピードボールで、甲子園出場に大きく貢献した上原選手は、高校時代に計4回の出場を経験しました。全国で沖縄水産高校の名前が知られるようになった立役者の一人ともいわれ、当時は「沖縄の星」として非常に注目される選手でした。高校卒業となる1987年のドラフトで、中日ドラゴンズから3位指名を受けプロ入りを果たします。

プロ入り一年目には、ウエスタン・リーグで蔡由修防御率と最多勝率を記録し、これを受けて一軍に抜擢されると、すぐに初勝利を挙げ、その年の日本シリーズにも登板しました。その後、広島東洋カープやヤクルトスワローズにも所属しましたが、1998年に現役を引退しました。

大野倫

プロ野球では外野手として活躍した大野選手ですが、裁監督率いる沖縄水産高校時代には、投手を任されていました。2年生の夏に出場した甲子園で県勢初の準優勝となった後も、エースで4番として、チームを牽引しました。ただ、3年生の県大会前から痛めていた右ひじの故障の影響で、高校卒業後は投手としてマウンドに立つことが出来なくなり、外野手に転向。

高校卒業後は、九州共立大学に進学し、福岡六大学リーグやアジア選手権等に出場します。大学卒業の1995年のドラフト会議で、読売ジャイアンツより外野手として5位指名を受けた大野選手。福岡ソフトバンクホークス遺跡などを経験した後、2001年に現役を引退しました。

新垣渚

横浜高校の投手だった松坂大輔選手を同期に持つ新垣選手も、裁監督の教え子の一人です。厳しい裁監督の指導の下、着実に力を着けていた新垣選手は、1998年に行われた甲子園大会では松坂選手と人気を二分するほど、全国的に注目の高い選手に成長していました。

高校時代にもドラフト会議で指名を受けましたが、以前から福岡ダイエーホークス入りを希望していた新垣選手は、希望チームとの交渉が叶わなかったことを理由に、大学進学を決めます。大学卒業後のドラフト会議で、福岡ダイエーホークスからの自由獲得指名を受け2002年にプロ入りを果たした新垣選手は、早々と先発ローテーションに定着し、月間MVPを受賞するなど活躍を見せました。2016年に現役を引退しましたが、引退後も、野球に関わる活動に携わる毎日を過ごしています。