栄町市場とひめゆり

モノレール安里(あさと)駅のホームの下の大きな道路は「ひめゆり通り」と言います。これは「ひめゆりの塔」のひめゆりです。今日は道路の名前から「ひめゆり」について学んでみましょう。

ひめゆり通り

ひめゆり通り

安里十字路から与儀方面に向かう道路は「ひめゆり通り」と呼ばれていて、この道路沿いには「ひめゆり」の名前がついているお店が多いです。NAHAマラソンのコースにもなっていますね。

名前の由来は、安里十字路の近くに「ひめゆりの塔」で有名になった「沖縄師範学校女子部」と「沖縄県立第一高等女学校」があったことからだそうです。

「沖縄師範学校女子部」は教員養成を目的とした学校でした。2つの学校は1916年に財政的な理由で併置校となり、学校内の施設を共有し、校長先生も兼任で姉妹校のような関係になりました。約8,000坪の校内には体育館や寄宿舎、当時の沖縄では唯一のプールもありました。

ひめゆりの由来

沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校には、それぞれ校友会誌があり、一高女は「乙姫」、市販は「白百合」と名付けられていました。2つの学校が併置された際に、校友会誌もひとつとなり、両方の名前を合わせて「姫百合」と名付けられました。ひらがなで「ひめゆり」と使うようになったのは戦後だそうです。

ひめゆり学徒の沖縄戦

勉学に対する志を持って入学したであろう生徒たちなのに、訓練や農作業に動員され、授業は少なくなっていきました。やがて看護教育も始まり、陸軍病院への動員に供えるようになりました。1945年3月23日の深夜、ひめゆり学徒222人は教員18人に引率されて陸軍病院に動員されました。

病院と言っても、なだらかな丘に横穴を掘り、むき出しの土壁に沿って粗末な二段ベットがあるだけでした。生徒たちは弾の飛び交う中、衛生的にも劣悪な環境の中で、寝る間もないほど忙しく働かねばなりませんでした。

6月18日の夜半、陸軍病院では学徒に「解散命令」が言い渡されました。米軍が目前に迫り砲弾が飛び交う中、生徒たちは放り出されてしまったのです。砲弾に吹き飛ばされたり、重症で動けなくなったり、波にのまれたりして亡くなる生徒が続出しました。自決した人も多かったそうです。陸軍病院に動員されて亡くなった生徒と教師は136名。3月23日の動員から解散命令を受けるまでの約90日間のひめゆり学徒の犠牲者は19名であるのに対し、解散命令後のわずか数日で100名あまりが亡くなったと聞くと、軍は一般人の避難に対して無策だったと感じられます。

ひめゆり学徒の最後の地のひとつである伊原第三外科壕の上にひめゆりの塔が立てられ、1989年6月23日ひめゆり平和祈念資料館が開館されました。

学校はどこにあったの?

先ほど、安里十字路の近くに沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校があったと書きましたが、実際にはどのへんにあったのでしょうか?足跡をたどるのは意外に簡単でした。モノレール安里駅から5分ほどのところに「那覇市立大道小学校」があります。この学校の片隅に少女の像があって、そこに説明が書かれていました。

少女の像

大道小学校は沖縄師範学校女子部の付属小学校として開校されました。このあたりから栄町市場あたりまでは沖縄師範学校女子部の校地であったそうです。校舎は沖縄戦で焼き尽くされ、廃校になりました。その跡地に栄町市場ができましたが、1968年、母校の埃を残す場として、平和発信の拠点として「ひめゆり同窓会館」が建てられました。

ひめゆり同窓会館はリニューアル工事中

栄町市場

ひめゆり同窓会館は栄町市場の中にあります。

栄町市場

1Fは市場です。2Fはこれまで通りコーラス活動などの講座や会議などが使える「ひめゆりピースホール」に変わります。3Fは同窓生の宿泊施設でしたが、リニューアル工事をして「リリィホステル」として、一般の女性でも宿泊できる施設になります。そろそろグランドオープンの予定です。

昼間と夜では全く表情の異なる栄町市場のもうひとつの表情を見たような気がします。この場所にこの建物がある意味を噛み締めたいと思いました。